私の履歴書~昔の思い出話~

昭和19年3月30日に長崎県に生まれる。

子供の頃、3~4歳の時に、戦後のひき揚げ船にお父さんがのっている夢をみた。新聞を読めなかったので爺さん(お父さん)が戦争から返ってくることを知らなかったが予知夢を見た後に、お父さんが自宅に戦争から帰ってきたことがある。

長崎にいた子供時代、婆さん(母)が憑きもの騒ぎで大変なことになったこともある。山伏が線香を鼻に押して、憑き物を出そうとしたが出ないのであきらめて帰った。八弧だ。親父が言った。お父さんが水を体にかけながら八弧に謝ると憑き物が取れた。

歌ヶ浦小学校に通う。1年生の頃泥棒、騒ぎがあって、俺が犯人と間違い騒ぎされる。青竹を持ち折檻される。親父が学校へ行こうと言った。先生が青竹を持ってた。叩くとは何事か、おやじが言った。先生はやめてしまう。兄が今日は休みだ。野苺を積んで、あそんでやるぞと言った。休みと違う。

学校まで2~3キロ当り歩いて通った。毎日毎日、いやになった。ところがどっこい転校である。

家族でブラジルに移住するつもりであったがやめて日本に残った。

転校後、山口県の高千穂小学校5年生である。ある時、木に登っていたら、きつねがしっこをした。たいへんだ。あわてて、おりたとこが木の枝の上だった。負傷した。医者へ行ったが傷痕が残る。

中学校卒業後、大阪へ行った。台風19号の時(伊勢湾台風)、会社の天井が吹っ飛んだ。あとが大変だ。

自動車学校へ行った。その後、故郷山口県へ帰る。y社の自家用運転となる。酒はだめ、アルコールはダメ、それ以外OK牧場。ある時、風呂へ入ろうかという。下関の帰り道、雨が激しく、怖かった。山陽小野田市にあるオート場の作業員は、オート券を買っていたこともあった。

y社は体育館や砂防工事もしていた。運転手をしていた部長と一緒にお風呂も入って、背中を流してもらった。

その会社を辞めて、ブラブラしているとまた自家用運転手を雇っている会社があると情報があった。早速応募しました。採用OKです。北朝鮮の人だった。そこはお正月の食事を写真を撮っている。その写真を北朝鮮へおくるとのことでした。

ある時、萩の帰り道にぶっ飛ばす車いるがそれを追い越せと言われた。俄然やる気を出して、追い越す。ところがパトカーに捕まった。2台共に捕まった。運転手させてもらっている人が用事があると言って勘弁してもらう。元新聞社の編集長の局長、H知事はぺこペコしてドアを開けて、帰るときには「ありがとうございました。」と言ってました。

そこもやめた。日輝工事でアルバイトをしてパイプを繋ぐ仕事をした。高い所で、仕事をしています。高い塔に上ってが塔がぶらぶら揺れて怖かった。九州石油でも工事の仕事をした。大在で夏みかんを取った思い出が残った。

その後、大分の姉が家業の手伝いして下さいと言った。お袋にも頼まれた。そこでは左官の手伝いをやった。襖の手伝う壁を塗り始めてから3ケ月位たっていた。やっとできた。かえしわざや、かべの塗り方、壁の原料やら覚えて、もろもろ、3年たった。ようやく解放された。

その後、Hという会社に入ってトラックの運転手になった。大阪便を担当して、1日の休日はホルモンやビールを飲んだ。交代で運転した。ある時、大阪へ行くはめになった。4トントラックだった。その時に当時の大阪万博へ2回ほどいった。椰子の実を買った。早速にナタでさばくはめになった。甘ったるい感じがした。大阪に出張していたが2年でやめて小野田へ帰った。

仕事で倉敷を通った時に、人にトラックを止められた。万国博覧会に連れて行ってといわれたが、事故があったら困るので乗せられなかった。大阪へ荷物を積むまで時間あるので寝た。

チクロ騒ぎの問題があったこともある。だからこそっと積んだ。トラックで多摩化学へ移動させた。4トントラックで移動させた。

東大へ行った弟の進をよび出して、雷門はどこか、聞いた。東京案内をたのんだこともある。正月までいた。その後小野田へ帰った。

H社では労働組合の委員長を頼まれた。3年してから辞めた。会社を辞めた後、大変な目にあった。労働組合を作った人が自分が委員長になるのが嫌だと言い出したので、私が委員長になったのだが、転職するときに邪魔をされた。面接を受けたある会社が教えてくれたことだ。「地元とトラブルを起こしたくないから」と謝られた。

その後、山口共英製鋼へいく。人事の担当者が弟の進の友達だった。

そこでは研究発表を大阪でやった。その後、新幹線でトンボ帰りだった。その後、退職希望者を募っていたので応募した。

50代の時に女房のリュウマチ病はひどくなった。車椅子を押して介護をしていました。

飼っていたネコが息子のいる名古屋に電話したこともあります。息子から「ネコが電話したみたい。お母さんが、叱る声が電話からしてた」と電話がありました。シーンと、シーンと、あわてて家に帰った。ネコが賢い。留守番電話の録音ボタンをおして、その会話をじっと聞いていた。息子の寮母さんに林檎を送ったのでお礼の電話がかかってきた留守番電話を何度も再生していた。病院から帰って家に戻る最中の女房の車椅子の先導をしたり、お迎えしてくれた。

女房のためにバリアフリーの車を購入する。椅子が自動で動く車を用意した。

ある時、女房は血圧が高いので、市立病院へ行った。それから、入院した。3日間意識がなかった。それから、目が覚めた後に女房が「病室に子供がいる。」と言い出した。亡霊がいるので部屋を変えてもらう。

私は島津商会でビニール袋を加工夜勤をしていました。娘と交代で介護をやった。

何年かたってから女房が危篤状態になった時に、雷がひどく雨がひどい天候となっていった。あ、あ、これでおしまいかと思った。女房に「ごめん」と思った。

ご清聴ありがとう。

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